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その女性は五十代の半ばに見えた。 
カーキ色の上着にスカート。特にアクセサリーの類は身につけておらず、質素な装いと言っていい。 
「こんなお話、していいのか…… ごめんなさいね。でも聞いていただきたいんです」 
癖なのか、女性は短くまとめた髪を右手で押さえ、話しにくそうに口を開く。 
大学一回生の冬。バイト先である、小川調査事務所でのことだ。 
僕と、そのオカルト道の師匠であるところの加奈子さんは二人並んで依頼人の話を聞いていた。 
だいたい、うちの事務所に相談に来る依頼人は、興信所の中では電話帳で割と前の方に出てくるという理由でとりあえず電話したという場合か、 
あるいは他の興信所で相手をしてくれなかった変な依頼ごとを持っているか、そのどちらかだった。 
今回はその後者のようだ。 
「あのう…… 実は私の祖母のことなんです」 
来客用のテーブルを挟んで僕らと向かい合ったその女性は、出されたお茶も目に入らない様子で、うつむき加減におずおずと話し始めた。 

女性は名前を川添頼子といった。 
頼子さんは昔、小学校に上がる少し前に今の川添の家に養女としてもらわれて来たという。 
実の両親のうち母親が亡くなってから、残された父親は小さな女の子の養育を放棄し、かつての学友の遠い縁をたよって養女に出したのだった。 
実の父や母の記憶はほとんどない。ただ自分がいつも泣いていたような、おぼろげな記憶があるばかりだった。 
川添家の養父と養母には子どもがなく、まるで自分たちの子どものように可愛がってくれた。けして裕福な家ではなかったが、学校や習いごとなどは他の子と同じように行かせてくれた。 
初めて人並みの人生を歩むことを許されたのだった。

その養父と養母がこの一年の間に相次いで亡くなり、一どきは深い悲しみに包まれたが、やがて落ち着いてその二人に育てられた日々を思い返し、頼子さんはたとえようもない感謝の気持ちを胸一杯に抱いた。 
そうして、このごろは昔のことを思い返すことが増えたという。 
特に養女としてもらわれて来る前の生活のことを。年を取った証だと夫はからかったが、次第に大きくなっていく過去への慕情を押さえられなくなっていった。 
ある日思い立ち、自分の実の父のことを調べ始めた。しかしやはり父はもう他界していた。もし生きていれば九十に届こうかという年齢だったので仕方のないことだった。 
自分の五十数年の人生を思い、それだけの年月が過ぎていることが今さらながらに身に染みた。 
そして顔もおぼろげなその父のことよりも強い輝きを持って思い出されるのが、祖母のことだった。 
父方の祖母だったのか、母方の祖母だったのかそれさえはっきりしないのだったが、優しげな顔や、膝の上に抱いてもらった時の服の匂い。 
そして皺だらけの手で頭を撫でてもらったその感触が、懐かしく思い出された。 
両親にかまってもらえなかった頼子さんは、よく歩いて祖母の家に遊びに行ったという。 
どういう道をたどって行ったのか、今ではそれも忘れてしまったが、ただ覚えているのは祖母の家の小さな縁側に両手をかけて祖母の名を呼んだこと。 
そしてしばらく待っていると、ゆっくりと板戸が開き、祖母がにっこり笑って顔を覗かせたあの柔らかな時間だった。 
祖母はその小さな家に一人で住んでいた。祖母もまた孤独だったのか、その来訪をとても喜んでくれたものだった。祖母との記憶は断片断片ではあったが、なにげない日常のふとした瞬間に前触れもなく蘇った。 
例えば夜中に寝付けず、布団の中でふと目を開けた時に。例えば雑踏の中、信号機が赤から青に変わる瞬間に。そんな時、自分がとても幸せな気持ちになるのが分かった。 
そしてどんなに懐かしく思っても、もう会えないのだということを思い出し、少し悲しくなったりするのだった。 
ある日、そんな祖母との思い出の中に、一つの恐ろしい記憶が混ざっていることに気がついた。 
ずっと忘れていた記憶。

養女に出され、全く変わってしまった生活の中で少しずつ忘れていった他の記憶とは異なる。自分から進んで頭の中の硬い殻に閉じ込めた、その気味の悪い出来事…… 
頼子さんはそのことを思い出してから、毎日悩んだ。祖母のことを懐かしく思い出していても、いつの間にか場面はその恐ろしい出来事に変わっている。 
そんな時、心臓に小さな針を落とされたようななんともいえない嫌な気持ちになるのだった。 
それは祖母の通夜のことだ。 
いつも一人で歩いた道を、父と母に連れられて行く。二人の顔を見上げている自分。暗い表情。とても嫌な感じ。なにか話しかけたような。答えがあったのか、それも忘れてしまった。 
そして祖母の部屋に座っている自分。狭い部屋にたくさんの人。黒い服を着た大人たち。確かに祖母の部屋なのに、見慣れたちゃぶ台が、衣装掛けが、見えない。 
その代わり、見たこともない祭壇があり、艶やかな灯篭があり、大きな花があり、棺おけがある。 
母が言う。 
お祖母ちゃんは死んだのよ。 
通夜だった。初めての。初めての、人の死。怖かった。よく分からない死というものがではなく、黒い服を着た大人たちがぼそぼそと喋るその小さな声が。節目がちな顔が。その部屋の息苦しさが。 
畳の目に沿って、爪を差し入れ、引く。俯いてそのことを繰り返していた。やがて父と母に手を引かれ、棺おけのそばににじり寄る。箱から変な匂いのする粉を摘んで、別の箱に入れる。煙が立ち、匂いが強くなる。 
棺おけの蓋は開いていて、両親とともにその中を見る。白い花がたくさん入っている。その中に埋もれて、同じくらい白い顔がある。 
見たことのない顔だった。 
お祖母ちゃんにお別れを言うのよ。 
母がそう言う。 
お別れ? 
どうして。 
首を傾げる。 
お祖母ちゃんはどこにいるのだろう。 
横を見ると、父が薄っすらと涙を浮かべている。 
なんだか怖くなった。 
そう思うと膝が震え始める。

怖い。怖くてたまらない。 
この人は誰だろう。花に囲まれたこの人は。 
大人たちが入れ替わり立ち替わり粉を落とし、こうべを垂れ、花を入れ、小さな言葉を掛けていくこの人は。 
怖くて後ずさりをする。 
涙を浮かべながら、みんな誰に挨拶をしているのだろう。 
座っていた誰かの膝につまずき、仰向けに転がる。 
見上げる先に、染みのような木目が長く伸びた天井があった。祖母の部屋の天井だ。 
その隅に、白い紙が貼られている。 
そこに気持ちの悪い文字が書かれていた。漢字だ。その、絡まりあった黒い線の一本一本がぐにゃぐにゃと動いているような気がした。 
怖かった。 
どうしようもなく怖かった。 
なにもかも、忘れてしまいたくなるくらいに。