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俺はいつも海水浴場から少し離れたテトラポットの周辺を釣り場にしていた。 
その日は薄曇の日で泳ぎに来てる人は殆どいなかったけど、一人だけやけに遠くを泳いでるのが見えた。 
波が立つ度に覗く頭や手足を見て、それが友人だと分かった。 

この辺の海は堤防の上から眺めると少し沖合いで一気に色が濃く変わる。 
そこから先はガクンと深くて、台風の後には見た事も無いような深海魚が掛かったりする。 
そんな深い場所まで行って泳ぐのが友人は好きだった。 

天気もあまりよくなかったし、釣果も無い俺はバケツを持ったまま堤防へ戻り、ブラブラと歩き始めた。 
少し行くと友人の自転車があり、俺はその近くへと腰を下ろして友人が戻ってくるのを待っていた。 
友人は泳いでいるのか溺れているのか分からない風に沖合いで遊び、やがて波に押し遣られるように岸へ上がった。 

声を掛けると友人は手を振り返し、濡れたまま堤防をよじ登り俺の隣へ腰掛けた。 
そのままどうでも良い事を話していたら、急に風が強くなってきた。 
生臭い潮の匂いを含んだ湿った海風がべっとりと纏わりつくように吹き付けていて、波が少しだけ荒くなる。 

俺達もそろそろ帰ろうか、という話になって、友人が着替えるのを待つ間海を見ていた。 
海の色がどんどん変わって、青が紺になり、もっと緑が混ざったような色になり、段々色が濃くなって、波が泡立つ。 
そのずっと沖、水平線に近いくらいの所にポツンと黒い影のようなものが見えた。 

灯台とか船か…人にしてはサイズが変だし、何だろうと思って目を凝らしてると、友人が不思議そうに俺の視線の先を辿った。 
「あそこに船みたいなもんが見える」 
俺は指を差して友人にその場所を教えた。 
この辺はウインドサーフィンやってる人が多いから、それかもしれない。

黒い点はさっき見た時よりも此方に近づいて来てるように見えたが輪郭がどうもはっきりしない。 
友人は影を指差した俺の人差し指を握って下ろし、すぐ後ろから俺のシャツの背中を握った。 
耳元でちょっと不穏な事を言い、最後に「絶対捕まえてるから大丈夫」と早口に捲くし立てる友人を振り返り、 
ふと気付いたら俺は海の上に立っていた。 

サンダル越しに硝子の上を歩いているような、ちょっと硬い感触があって、 
その下で波がはじけると足に掛かる水が凄く冷たい。 

何メートルか先に黒い人影が見えて、そいつがゆっくりゆっくり近づいてくる。 
黒い影は人の形をしているけれど、全部が人の手首で構成されていた。 
真っ黒というか、濃い紫のような斑に爛れた色の手首が大小幾つも折り重なって組み合わされて 
人のような形になっている。 
ぞわぞわとそれが蠢く様子が近づくにつれて鮮明に見え、時々はがれた爪や小さな手が海中へ落ち 
また足元から這い上がるように重なっていく。 

心配になって振り向くとそんなに遠く無い場所にさっきまで居た堤防が見えたが友人は見えない。 

逃げ出したかったが、俺は友人から言われた通りにじっとその場を動かなかった。 
ちょっとだけ後ずさると踵が波に沈んだ気がする。

指が絡み合う音が聞こえる程に近付くと、黒い影は何人かが同時にしゃべっているような 
篭った声で「水を一杯いただけませんか」というような事を言ってきた。 

俺はそれには答えずに、息を止め右手の人差し指と親指でチョキの形を作り、 
影と俺の間で何か見えない糸でも切るようなつもりで二本の指をくっつけて、 
次に両手をパーの形にし、海へと向けた。 
その瞬間に背後からグン、と引っ張られるような感覚があって、気付くとさっきまでと同じ堤防にいて、 友人が俺のシャツの背中を握り締めて「おかえり」と言って笑った。 

もしもあの時逃げ出していたら、一歩進むごとに体が沈んで、岸に戻る前に溺れてしまうと教わっていた。 

あれから望まれるものは蝋燭1本だったり、水一杯だったり、色んなものがあるらしいけれど、 
どれも絶対に答えてはいけないそうだ。