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立ち去った時の足跡もないのなら、その後で雨によって消されたということになる。
しかし魔方陣は消えていない。 

「やっぱりおかしいですね」 

雨が止んだ後で魔方陣を描いたのなら、そのイタズラをした誰かは
どうやって足跡を残さずにその場を去ったというのか。 
写真を見る限り、魔方陣は園庭の中ほどにあり、園舎からもフェンスからも花壇からも、そして門からもかなり離れている。 
一番近いフェンス側でも恐らく十メートルはある。とても一飛びに飛べるような距離ではない。 

「竹馬で行ったとか」 

僕の意見に呆れた顔をした師匠だが、一応確認する。 

「竹馬はありますか」 

「うちにはありません」 

「まあ、かりにあったとしても、そんなことまでして足跡を残したくない理由はないでしょう。 
仮にまだ雨が降っていて、園児の昼寝の時間中だったとしても、
先生の誰かがカーテンの外を覗けば間違いなく見つかってしまうこんな遮蔽物もない場所で、
そんなイタズラを敢行しようというんですから。 
描いているところを見られてもかまわない、と思っている人ならそこまでして
足跡だけを残したくない理由はないでしょう。 
逆に出来れば見られたくないと思っている人なら、これはスピード勝負です。そんな目立つ竹馬なんかに
乗ってえっちらおっちら行くなんて考えられません」 

「じゃあ、トンボみたいなもので自分の足跡を消しながら立ち去った、とか」 

「む、なるほど」 

僕の言葉に師匠は思案げな顔をして頷く。 
すると悦子先生から反論が出た。 

「だとしたら地面にナメクジが這いずったみたいな跡が残るんじゃないですか。そんなものありませんでした」 

「ふうん。ではとりあえず足跡の問題は置いておくとして、もう少し確認したいことがあります」 

師匠はそう言った後、ゆっくりと口を開いた。

「方法はともかく、誰がやったかということです。この中に犯人を知っている、という人は?」 

反応がない。あたりまえか。 

「では、まず考えるべきは部外者でしょう。
この保育園の敷地の出入り口は、あっちの正門だけですね」 

角度的に今いる場所からは見えないが、師匠は右手方向を指さす。 

「そうです」 

「普段は開けておくのですか」 

「送迎の時間帯以外はほとんど開けません。それ以外の時間だと、出入りの業者さんが来た時とか……」 

「その雨が降っていた時間帯も閉めていたと」 

「はい」 

「でも外からも開けられるんでしょう」 

さっき来る時に、門の構造を見てきたのだ。 
二メートル少々の長さの、下部についた滑車でスライドさせるレール式門扉であり、重そうではあったが、つっかえ棒になるバーをずらしただけで鍵をかける単純な仕組みになっていた。 
外からでも手を伸ばしてさし入れれば、バーは操作できる。 

「でも、門を動かせば凄い音がします」 

かなり錆びてますから。
麻美先生と呼ばれた保育士が口を開いた。
確か三・四歳児の担任の先生だ。 女性にしてはガッチリした体格で、袖から覗く腕などかなり太い。
このメンバーではリーダー格の悦子先生に告ぐ二番手と
いったところか。
 
後の二人は年も若く、大人しそうにしていてまったく口を挟んで来ない。 

「その音が聞えなかった、ということですね。雨が降っていて、
戸を閉め切っていても聞えないものでしょうか」 

「じゃあ試しに……」 

麻美先生が立ち上がるとガラス戸から外へ出て行った。 
僕らも戸口まで行って門の方を覗き込むと、麻美先生がふんと力を入れた瞬間に、
門は物凄い音を立てながら横に滑り始めた。 
僕は思わず耳を塞いだ。あまり好きな音ではない。 
しかしなるほど、これなら雨が降っていて、かつ戸を閉めていたところでまず間違いなく聞えるだろう。 

「ありがとうございます。良く分かりました」 

麻美先生が戻って来てから師匠は口を開く。 

「でも門はそれほど高くありません。
乗り越えようと思えば乗り越えられない高さではないはずです。 
それに園庭側の敷地の周囲のフェンスもいわゆる金網ですから、
よじ登っていけば越えられるはずです。 
園舎側のブロック塀は足場のない外からだと厳しいかも知れませんが」 

「それはそうですけど」 

悦子先生が不満そうに言う。

「まあ、それだけ目立つリスクを負った外からの侵入者が犯人だとしても、
やはり足跡の問題は残ります。門からもフェンスからも魔方陣は遠すぎますから」 

師匠は部外者説を簡単に切り上げ、次の説に移した。 

「では、次に園の先生の誰かが犯人である可能性は?」 

おいおい、まだやるのか、と僕は思った。 
悦子先生たちは心霊現象の専門家としての師匠の噂を聞いて解決のために依頼して来たのに、
当の師匠はまるでこの事件がただのイタズラであるかのように聞き込みを続けている。 
先生たちも鼻白んだ様子を隠さなかった。 

「そんなことをするような人はいません」 

悦子先生が代表してそう宣言した。 
師匠は少し下手に出るようにおどけた仕草を見せて

「もちろんそうでしょう、そうでしょうけど、これも必要な確認ですから」

と話を続けた。 

「その時いた職員では、今ここにいらっしゃる四人の他にどういった方が?」 

不承不承、といったていで悦子先生が答える。

「まず園長先生です」 

「ああ、そうでしたね。それで他には」 

「主任保育士の美佐江先生。0歳児の担任が三人いて、時子先生と美恵子先生と理香先生。
あと調理員の本城さんと青木さん。これで全員です」 

「その調理員のお二人も女性ですか」 

「そうです」 

その日の職員全員が女性だったというわけか。保育園では珍しくないのかも知れないが。
しかしメモしないと覚えきれないぞこれは。 僕が手帳に名前を書き付けている間に

「臨時職員とかは?」

と続けて師匠が問い掛ける。これには麻美先生が答えた。

「忙しくなる送迎の時間にだけ来てくれるパートの方はいますが、そのことがあった時間帯にはいませんでした」 

「なるほど。では全部で、十一人と。『11人いる!』なんて漫画がありましたね」 

師匠の軽口にどの先生も一瞬反応を見せた。
ちょうど世代ということか。かくいう僕も男だてらに読んだ口が。 

「まあそれはいいとして、問題の時間帯にそれぞれの方がどんなことをしていたか、分かる範囲で教えてもらっていいですか」 

それから四人の保育士の話を聞いたところをまとめると、おおむねこういうことになるようだ。 
十一時ごろ雨が降り出して、園庭で遊んでいた園児たちは全員室内に戻される。 
それから昼の食事。保育士も一緒に食べるのだが、食育、といって園児の食事時間中も仕事のうちだ。 
食事が終わると、絵本の読み聞かせをし、その後は園児たちを着替えさせて昼寝をさせる。 

この時点で十二時過ぎ。園庭に出ていない二階の0歳児から二歳児の部屋でも十一時の昼食の後は、昼寝の時間だ。 
先生たちは寝ている子どもたちの様子を見ながら、それぞれ部屋の中の自分の机で主に連絡帳をつけて過ごしている。 
昼寝の時間中、十二時四十五分に簡単な打ち合わせのため、一度先生たちは事務室に集まっている。 

その際、0歳児の部屋からは代表で時子先生だけが参加している。
それ以外の時間は各先生ともトイレに立つぐらいで特に部屋の外に出ることもなかった。 
園長と主任保育士は各部屋の食事や昼寝前の着替えなどを手伝い、
別同部隊として自由に移動している。昼寝の時間になると二人とも事務室にこもり、様々な雑事をして過ごしている。
 
なお、この二人の動きについては推測となるが、魔方陣発見後の証言から、少なくとも外へは出ていないようだ。
残る調理員二人については、園児の食事終了後、食器洗いなどの片付けのために調理室にずっといたらしい。 
このあたりの行動は日々のルーチンであって、ほぼ間違いのないところだそうだ。 

「なるほど。だいたい分かりました」 

師匠はそう言うと、僕も疑問に思っていたことを続けて口にした。 

「先生の休憩時間はないんですか」 

その言葉に悦子先生が反応する。 

「ないんですよ! おかしいでしょう。昼食の時間だって食育だし、昼寝中もずっと子どもたちを見てないといけないし。 
連絡帳だってちゃんと書かないといけないのに、その昼寝の時間くらいしかないんですよ、書く時間。いつ休憩とったらいいんですか、私たちは」 

日ごろからの不満が堰を切って出てくるのに、
師匠は渋い顔をした。 

「保育園によってはねぇ」

と麻美先生が口を挟む。

「園長先生とか主任とかフリーの先生が交代で子どもを見てくれて、順番に休憩取ってるとこもあるんだけど」 

うちはねえ…… 
そんな溜め息をつきながら四人の保育士たちは顔を見合わせる。
どうやら園長を中心とした今の体制に大いに
不満を持っているようだ。 
それとなく師匠が話を振ると、今日来ていない0歳児の担任の三人と主任保育士は完全な園長派らしいことが分かった。
女性ばかりの職場だ。
そういう人間関係のややこしさもあるのだろう。 
まだまだ出てきそうな不満に、師匠は

「まあまあ、とりあえずは分かりました」

と話を一度切る。 

「とにかく、雨が降っている間は誰も外に出ていないと、そういうことですね」 

先生たちが頷くのを見回してから、師匠は続けた。
 
「では園児たちはどうでしょう」 

これにもすぐに反論がある。 

「出ていません。食事の時間も昼寝の時間もずっと私たちが部屋で見てたんですから」 

「でも昼寝の時間には一度事務室に集まっているし、トイレに立った時間もあります」 

「外は大雨ですよ。音も凄いです。カーテンを閉めてやっと寝かしつけたのに、
子どもの誰かがガラス戸をあけて外へ出ようとしたら、他の子も起き出します。 
絶対に。打ち合わせは十分もかかってないです。 
その起きてしまった子どもたちが、私が戻ってきた時に一人残らず布団で大人しく寝てる、なんてありえません」 

悦子先生の言葉に他の先生も頷いている。 

「しかし出入り口はガラス戸だけじゃないでしょう。
こっちの廊下側の戸から出て、玄関に向かえば、他の子を起こさずに外へ出られる」 

この師匠の意見も鼻で笑われた。

「事務室の戸は開けっ放しです。しかも園長先生の机がすぐ横にあるから、子どもが廊下を通り過ぎようとしたら絶対に気づきます。 
昼寝の時間に外へ出ようとしたら、凄く怒られるので、子どもたちはみんな園長先生を怖がってます」 

「分かりました。念のために訊きますが、その日、園長先生は誰も外へ出てないと言ってるんですね」 

「はい」 

なるほど。先生たちの間でも子どものイタズラの可能性は一応検討されたのか。
しかしそれも園長の証言で否定された。 

「一階の子どもたちはそれでいいでしょう。でも二階の子どもたちはどうです。 この園舎の構造上、二階の階段から降りてくれば、事務室の前を通らずにそのまま玄関から外へ出られるのでは
ないですか」 

「二階の子は、一番上でも二歳児ですよ。その日の午前中も外ヘは出していません。 
一人で出て行くなんて…… 第一、外へ出ても二歳児にあんなもの描けるもんですか」 

悦子先生の言葉に、僕もハッとした。 
そうだ。魔方陣なのだ。 
二歳児が五歳児だろうと、そもそもそんなものを子どもが描けるものだろうか。 
思わずもう一度くだんの写真を覗き込む。
園庭に描かれた円の中には幾何学的な模様が浮かび上がっている。適当にイタズラで描いたものとは思えない。
そこにはなんらかの意図が感じられる。 
あらためて気持ちが悪くなってきた。
 
「これ、どうやって描いたんだろうな」 

ふと思いついたように横から師匠がそう言う。 

「木切れとかでガリガリやったんですかね」 

「そんなもの落ちてるか、保育園に」 

しかし手で描いたとも思えない。 

「傘、じゃないでしょうか」 

おずおずと、当の写真を撮った二歳児の担任の洋子先生が言う。 

「その日は雨が降るかも知れないっていう予報だったから、みんな傘を持って来ていました。
下駄箱のところの傘立てに一杯置いてありましたから」

なるほど。傘の先で地面をガリガリとやったわけか。 

「傘立ては玄関のところと?」 

「一階の部屋の外の下駄箱にもあります。一階の子はそこから出入りするので」 

「傘か……」

師匠はそう呟いて立ち上がり、開け放しているガラス戸のそばに立って外を見つめる。 
そしてくるりと振り返ると、

「カーテンはすべて閉めていたんですよね」

と訊いた。外は大雨だったのだ。一階の部屋だけではなく、二階の部屋も、そして事務室や調理室もすべてカーテンが閉まっていたと、先生たちは証言した。

「子どもたちの傘はカラフルです。誰かがその傘を手にして地面に魔方陣を描こうとしたら、カーテンの隙間から見えてしまったりはしないですか。 
いや、もし魔方陣が描かれたのが雨が降っている間だったとしたら、その誰かは地面に描く道具としての傘だけではなく、自分がさすための傘も一緒に手にしたのではないでしょうか。
だとすれば目立ちますね。ほんの少しでもカーテンの隙間があれば……」 

先生たちの間に動揺が走った。 
師匠はそれを見逃さない。 

「なにかありましたね」 

促されて悦子先生が口を開く。 

「私が担任をしているアキラくんが……」 

青いものを見た。 
そう言っているらしい。
昼寝の時間に、ふと目が覚めたとき、ガラス戸のカーテンの隙間から青い色のなにかを見たのだと。雨の中に。 
気にせずまた寝てしまったが、絶対に見たんだと言い張っている。 
他の子は誰もそんなことを言っていない。
五歳児のアキラくんだけの証言だ。 

「青いもの、ですか。この部屋からですよね」 

師匠は外を見つめる視線を険しくする。 
園庭の向こうにはフェンス沿いに木が並んでいる。まさかその枝葉のことではあるまい。 

「青い傘を持って来ている子は?」 

という師匠の問いに、

「いっぱいいると思います」

という答えがあった。 
先生の中にも青い傘を持って来ている人は何人かいて、
その日、玄関の下駄箱にも確実に青い傘はあったのだそうだ。 

「まあ、魔方陣と関係があると決まったわけでもありませんが」 

師匠はそう言ったが、あきらかになにか疑っている顔だ。 

「その日、十一時から二時までの間しか雨は降っていません。
降り出してからはすぐにみんな園舎に入り、その後誰も雨が上がるまで外に出ていません。 
確実に言えることは、雨が上がって騒動が持ち上がった時、
濡れた傘が一本、もしくは二本傘立てにあったとしたら、その傘を置いたのは雨が降っている間に外に出て
魔方陣を描いた人物の可能性が高い、ということです」 

師匠の言葉に僕は感心した。
そうか。その日、誰も傘は使っていないはずだ。使ったとすれば、
こっそり外へ出る必要があった人物だけ。 
濡れた傘が傘立てにあったとしたら、それはすなわち魔方陣を描いた犯人のものに違いないのだ。 
そこまで考えて僕は、いや違う、と思った。犯人が自分の傘を使ったとは限らない。
まして外部からの侵入者だとすれば当然だ。 
しかも、保育士たちは揃って首を横に振った。誰も下駄箱の濡れた傘など確認していないのだ。 
その騒動の中、そこまで知恵が回らなくても仕方がないと言えた。もはや唯一と言っていい物証も断たれたようだ。 
しばし沈黙が降りた。 

「あの…… そう言えば私、一度外を覗いたんですが、その時見たものがあるんです」 

悦子先生が思い出したようにそう言った。 
外が光って雷が鳴った時だ。ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、
緑色のタオルのようなものがフェンス際の木の枝に引っかかっているのが見えたのだと言う。
雨だけではなく、風も吹いていたのでどこかから飛ばされて来たのだろう。
 
「青ではなく、緑だったんですね」 

「はい」 

なら無関係か。いや、元の青いものからして魔方陣と関係があるのかよく分からない。 

「そう言えば私もそれ、見ました」 

それまでずっと黙っていた由衣先生が口を開いた。
一歳児の担任の先生だ。四人保育士の中で一番気が弱そうで、心なしか顔色も悪い。 

「雷が鳴って驚いて振り向いたら、あの辺の木の枝にタオルが引っかかってるのが見えました」 

外に向かって指をさした後、

「緑色、だったと思います」

と、そう付け加えた。 
他の先生にも訊いたが、三・四歳児の担任の麻美先生は雷が鳴った時、カーテンの方は見たが、
外は覗かなかったと言い、二歳児の担任の洋子先生は机でうとうとしていたのか、
雷には気がつかなかった、と言った。 

「魔方陣が見つかって騒ぎになった時には、その緑のタオルはありましたか」 

先生たちは顔を見合わせる。 
やがて悦子先生が口を開く。 

「それどころじゃなかったから、はっきり覚えていませんが、あったと思います」 

同じ木の枝に引っかかっていたはずだ、と付け加える。

「誰か拾った?」 

などと先生たちは話し合い、結局誰もその後のことは分からず、
また風でどこかへ飛ばされたのかも知れない、ということに落ち着いた。 

「これにも写ってないかな」 

師匠はそう言って、写真をまじまじと見つめる。 
僕や他の先生たちも顔を寄せ合って魔方陣発見直後の写真を覗き込むが、フェンス際の木にはそれらしいものが見当たらない。 

「ああ、でも幹に近い枝のあたりだったから……」 

悦子先生が言った。 
なるほど、二階から撮ったこの写真では角度的に生い茂る葉で隠れてしまって見えないのかも知れない。 
結局なにも分からない。 
僕は溜め息をついた。 

「緑ねえ」 

その時ふと思いついた。 
その青いものを見た、というアキラくんがおじいちゃん子、
おばあちゃん子ならもしかすると緑色をしたものを「アオ」と言ってしまうかも知れない。 
お年寄りの中には「緑」のことを「アオ」という人もいるのだ。
それを聞き慣れていた子どもならひょっとして……
だがそこまで考えて、はた、と思考が止まる。 
だからなに、という感じだ。一応口にしてみたが、やはり師匠はそんな反応だった。 
アキラくんが見たものが実際は緑のタオルだったとしても、誰かが傘を持って外にいたことを否定するものではない。 
もちろん傘を持って外に出ていた人はいなかったかも知れないし、
いたとしてもその誰かが魔方陣を描くには
足跡の問題が残ったままだ。 
また沈黙がやってきた。 

チチチ。 

と、ガラス戸の外を小鳥が鳴きながら飛び去っていく。 
嫌な静けさだ。 
それから師匠が念のため、と言い置いて一階の廊下側から外へ出る
もう一つの出入り口のことを確認する。 
事務室の前を通らず、反対側へ進むと裏口の扉があり、その外はプールにつながっている。 
しかし普段は子どもたちが勝手にプールの敷地へ入らないように内側から鍵が掛けられており、
その日も間違いなく施錠されていたという。 
そして開錠するための鍵は事務室にあり、園長が管理している。誰も持ち出せない。

また、五歳児の部屋と調理室との間にある倉庫も施錠されており、
また仮に中に入れても窓すらなく、外へは出られない。 
いよいよ手詰まりになってきた。 
会話がなくなり、みんな考え込んだ表情で俯いている。 
僕は師匠をつついて、ちょっと、と窓際へ誘った。 

「どうするんです」 

小声で訊くと、

「なにが」

と返される。 
ここまでなにやら推理めいたことをしているが、結局なにも分かっていない。
オバケ事案を解決するための霊能力を期待されてやってきたはずなのに、これではどうやって決着をつけるつもりなのか。 
そんなことをささやくと、ふん、と笑われた。
 
「いないものはしょうがないだろう」 

「いないって、なにがですか」 

「あれがだよ」 

うすうす僕も感じていたが、あらためてそう言われると、やっぱり、という気になる。 
ようするにこの保育園にオバケの気配を感じないのだ。 
この魔方陣騒動の前からたびたびあったという怪談めいた話など、やはりただの噂だったのだろうか。
師匠は少し唸って、こう言った。 

「ちょっと違うかな。なんかこう、残滓、残りカスみたいなものは感じるんだけど、もういなくなった、ってとこだな。まあ多少の悪さをする霊がいたとしても、もう消えちまったってんじゃどうせたいしたことないやつだっただろうし、
今さらどうしようもないわな」 

「魔方陣はそいつが?」 

「さあなあ。もう分からん。人間がやった可能性の方が高いと思うけど」 

師匠は溜め息をついた。 
この場をどうやって収めるのか、なんだか心配になってきた。 
これだけ依頼人たちに時間を取らせて、結局なにも分かりませんでした、というのでは気まずい。気まずすぎる。 
今も背中に無言のプレッシャーを感じる。 

「とりあえず、もう悪霊の類はいなくなっていますから、
これからは大丈夫です、とでも言いますか」 

口先だけではまずそうなので、なにか小芝居の一つでもいるかも知れない。 
しかし師匠は頭を掻きながら、

「でもなにか引っかかるんだよな」

とぶつぶつ言う。 
そうしてしばらく考え込んでいたかと思うと、

「んん?」

と唸って外に飛び出した。 
園庭の中ほどで立ち止まり、周囲を見回す。そして正面のフェンス際の木と、園舎とを交互に指さしてしきりに頷いている。 

「ああ、そうか」 

少し遅れて駆け寄った僕の耳にそんな言葉が入ってきた。

「おい、タオルを借りて来い」 

師匠から僕に指示が飛ぶ。 

「緑色のですか、青色のですか」 

そう確認すると、

「何色でもいい」

という答え。その瞬間、僕は師匠がなにか掴んだということを
感じた。 僕はすぐさま五歳児室に戻り、先生たちにタオルを貸して欲しいと頼む。 

「これでいいですか」 

悦子先生から渡された白いタオルを手に園庭へとって返すと、
そのまま

「あの木の枝に引っかけてこい」

と言われる。 
ちょうど五歳児室の正面の木だ。 
僕は木の下に立つと、登れそうにないことを見て取り、タオルを丸めて幹に近い枝をめがけて投げつけた。 
最初はそのまま落ちて来たが、何度か繰り返すと上手い具合に引っかかってくれた。 

「これでいいですか」 

と振り返ると、師匠が親指で園舎をさしながら頷いている。 
二人して五歳児室に戻り、四人の保育士たちが見守る中でフローリングの床に腰を下ろした。 

「さて」 

視線を集めながら師匠が落ち着き払った態度でそう切り出す。

「雷が鳴った時に見たという、緑のタオルのことですが、
あんな感じで木の枝に引っかかってたんですね」 

保育士たちは、いったい何を言い出すのだろう、という怪訝な表情で見つめている。 

「悦子先生、そうですね」 

念押しをされてようやく悦子先生は頷いた。 

「由衣先生、そうですね」 

由衣先生も恐々、という様子で神妙に頷く。 

「麻美先生、そうですね」 

話を振られた麻美先生は、驚いたように

「私は見ていません」

と言った。 

「洋子先生、そうですね」 

洋子先生も、

「私も見ていませんから」

と返事をする。 
全員の答えを聞き終えてから、師匠はもう一度その中の一人に向かってこう言った。 

「由衣先生、あなたが犯人ですね」 

ええ? 

どよめきが走った。 
僕にしてもそうだ。 

「ち、違います」 

怯えた表情で由衣先生が否定する。

「では少し思い出しましょうか。事件当日のことではありません。 
つい先ほどの証言です。悦子先生が『外が光って雷が鳴って、ガラス戸のところまで歩いて、
カーテンの隙間から外を覗いたら、緑色のタオルみたいなものがフェンス際の木の枝に引っかかっているのが見えた』

と言ったあと、由衣先生はこう言いました。 

『雷が鳴って驚いて振り向いたら、あの辺の木の枝にタオルが引っかかってるのが見た』と」 

師匠の言葉に誰も怪訝な表情を崩さない。 
一体なにを言いたいのか、さっぱり分からないのだ。 

「この二人の証言には決定的な違いがあります。雷が鳴った後の行動です。 悦子先生は、ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、タオルが見えました。 
しかし由衣先生は、驚いて、振り向いたらタオルが見えています。分かりますか。
カーテンの隙間から覗いていないんですよ。 
さらに言えばガラス戸に近づいてもいない」 

師匠は自信満々という表情でそんなことを言う。

「いいですか。雨が降っている間、園舎のすべてのガラス戸や窓にはカーテンが掛けられていました。
このことはこれまでの証言から確かなはずです。 
カーテンを開けず、また隙間から覗き込みもしないで、
園庭のあの木の枝にかかったタオルを見ることは
できないはずなんです。もちろん……」 

はじめから外にいた人を除いて。 
師匠の目が細められる。芝居掛かっているが、ゾクリとするような色気があった。 

しかし…… 

「そんなの、ただの言葉の綾じゃないですか」 

由衣先生ではなく、悦子先生が気色ばんでそう抗弁する。疑われた本人の方は真っ青になって小刻みに震えている。 

「いいえ。彼女はカーテンから外を覗いていない。
雷に驚いて振り向いたとき、そのまま木の枝のタオルが
見えたんです。 
証言の通りのことが起きたのです。それを今から
証明して見せます」 

そう言って師匠が立ち上がった。
キッ、となって悦子先生も立ち上がる。麻美先生も肩を怒らせながら立ち上がった。 
それに遅れて洋子先生と由衣先生もおずおずと腰を浮かせる。 
外へ出るのだと早合点した悦子先生がガラス戸の方へ向かいかけるのを、師匠が止める。 

「こっちです」 

そうして廊下へ出た師匠は玄関の方へ進んでいった。 
三・四歳児の部屋の前を通り、事務室の前を通り抜け、玄関の奥にある階段の前で立ち止まった。 

「上ります」 

そう言ってから階段に足を踏み出す。僕らもそれに続いて階段を上っていく。 
二階の廊下にたどり着くと、右手側に戸が四つ並んでいる。 
遊戯室、0歳児室、一歳児室、二歳児室。
師匠は三番目の一歳児室の戸を開けた。由衣先生が担任をしている部屋だ。 
一階と同じようにフローリングの床が広がっている。五歳児室よりも少し狭いようだ。
位置で言うと、一階の三・四歳児室の真上ということになる。 
休園日のためか、窓のカーテンが閉められていて少し薄暗い。 
全員が部屋に入ったことを確認してから師匠がその窓際に近づいていく。 

「仮に、です。雷が鳴った瞬間、たまたま窓際にいたとしましょう。それも窓に背を向けて。
そして外が光る。雷が鳴る。驚いた由衣先生は振り向く」 

師匠はそう喋りながら振り向いて、窓のカーテンに手を突く。 

「おっと、まだ外は見えませんね」 

嫌らしくそう言ってから、カーテンの裾をつかんで開け放つ。ジャッ、というレールを走る音がして、
外の光が飛び込んでくる。
 
「さあ、カーテンは開きましたよ! タオルはどこに見えます?」
 
師匠は声を張った。
僕らは思わず窓際に近寄って、同じように外を見下ろす。 
なんの変哲もない園庭の光景が眼下に広がっている。 
タオルは五歳児室の正面の木に引っかけたはずなので、隣の三・四歳児室の真上に位置するこの部屋からは
少し左斜め前方に見えるはずだ。 
みんなそちらの方向を見つめる。 しかし白いタオルは
見えなかった。 
先生の誰かが言った。 

「ここからじゃ、角度が」 

そしてハッと息を飲む。 
師匠が写真を掲げて見せる。 
魔方陣が写った園庭の写真だ。

「二階の部屋、正確には隣の二歳児室から撮影されたこの写真は、
フェンス際の木まで写ってはいますが、葉が茂っているせいで、幹に近い枝にかかったタオルは見えません。 
悦子先生の証言では、魔方陣が見つかった時にもタオルはあったということでしたね。
ちょうどこの写真が撮られた時です。 
なのに、写真には写っていない。葉が邪魔して見えないんですよ。二階の窓から構えたカメラからは」 

師匠は両手の親指と人差し指でファインダーを作り、
ニヤリと笑った。 

「つまり、二階の窓からの視線ではね」 

こんな風に。そう言って、僕がさっき白いタオルをかけたはずの木に向かって

「カシャッ」

と口でシャッターを切った。
みんな驚いた顔で師匠を見ている。そしてその視線がやがて由衣先生に集まる。 

「私じゃない!」 

由衣先生はそう言ってその場にへたり込んだ。顔を覆ってわなわなと震えている。 

「外には出ました。でも私じゃない」 

そう呻いて、啜り泣きを始めた。 
他の先生が

「落ち着いて、ね?」

と言いながら背中をさすっている。 
師匠はその様子を冷淡に見下ろしている。 
しばらくそうして啜り泣いていたが、ようやくぽつぽつと
語り始めた。

自分の口から、あの日あったことを。 

きっかけはその事件の数日前だった。 
園児たちがみんな帰宅し、他の先生たちも順次帰っていった後、由衣先生は一人で園に残って、
書きかけの書類を仕上げていた。七時を過ぎ、
その残業にもようやく目処がついたころ、ふいに来客があった。 

スーツを着て、立派な身なりをしていたので、保護者が忘れ物でも取りに来たのかも知れないと思い、
門のところまで出て行くと、その男性は頭を下げながら

『沼田ちかの父です』

と言うのだ。沼田ちか。 
その時初めて不審な思いが湧いた。 
とっさにそんな子はうちにはいませんが、と口にしそうになった瞬間、その名前とそれにまつわる事件のことを思い出した。 

数年前、この保育園に通っていた沼田ちかちゃんという女の子がいたことを。 
片親だったその子は他の子と家庭環境が違うことを敏感に感じ取り、園でもあまりなじめなかったそうだ。