126 : もういいかい  ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2010/08/29(日) 21:33:04 ID:zEqctehg0 [5/16回(PC)]
「ッてぇな!」 
師匠が乱暴な口調で起き上がったその瞬間だった。 
『もういいかい』 
どこからともなくそんな問いかけが降ってきた。思わず二人とも動きが硬直する。視線だけを走らせて室内を観察するが、なにも目に見える異常はない。 
なんだ? これからなにが起こる? 
ドッドッドッ、という心臓の音を聞きながら考える。 
噂ではなんと言っていた? 返事だ。返事はするのが正解か、しないのが正解か。もういいかい、に対してする返事は…… 
「師匠」 
横目で見ると、「黙ってろ」という一言。 
緊張しながらもじっとしていると、また得体の知れないその声の余韻が空中に糸を引いたようにすうっ、と動き、今度はテレビのある壁の向こうに消えていった。 
壁の向こうは外のはずだ。 
はぁっ、と息を吐き、初めて自分が息を止めていたことに気づく。 
師匠は間を置かずに走り出した。 
廊下に出て、電気を点けて回る。トイレや台所、物置ともう一つの小部屋。すべて一通り探索したが、自分たち以外の第三者はどこにも潜んではいなかった。 
玄関に戻ってきてドアを見ると、自分たちで施錠した時のままだった。 
腕時計を見ると夜の八時過ぎ。ほんの少しうとうとしたつもりだったのに、こんなに時間が経っている。 
「さっきのはなんでしょう」 
恐る恐る訊く僕に、師匠はかぶりを振った。 
「言葉は発していたが、人間的なものを感じなかった。普通の霊とは違う気がする。かと言って物霊とも……」 
僕は『もういいかい』というさっきの言葉の声色を思い出そうとする。 
男か、女か。そして若いのか、年寄りなのか。 
しかし、駄目だった。空気を振動させて伝わった音ならば記憶の中に確実に残っているはずだが、あの声は直接脳に響いたとでも言うのか、まったく勝手が違った。まるで幻聴を思い出そうとするように、捕らえどころのない感じ。 
余計な情報が刻一刻と揮発し、『もういいかい』という言葉の意味だけが純粋に脳裏に刻印されていく。 
最後に壁の向こうに余韻が消えていったような気がしたことを思い出し、玄関の扉に目を向ける。

 
127 : もういいかい  ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2010/08/29(日) 21:35:51 ID:zEqctehg0 [6/16回(PC)]
師匠も頷いて玄関の段差を降り、靴に足を入れた。 
扉を開けて外に出ると、明るさに慣れた目に、夜の空気がどろどろと黒い幕となってまとわりついてきた。 
古い家の並ぶ閑静な住宅街の一角にある集会所の敷地は広く、玄関から表の道路まで少し距離があった。 
その間の砂利道を歩いてくる黒い人影に気づいた。 
「どうかされましたか」 
怪訝そうな表情が敷地の隅の街灯の明かりに照らし出される。鎌田さんが両手にお盆を抱えて立っていた。 
ホッとして、「ええ、それが」と言いかけるのを師匠が制した。 
「ちょっと訊きたいことがありますが、いいですか」 
「え、ええ、はい」 
鎌田さんは玄関の扉を開けてお盆を置いた。ラップに包まれたお握りが六つと惣菜らしいタッパーがのっていた。夜食を持ってきてくれたようだ。 
「姿を見た、という人はいないんですね」 
「え、ああ、噂ですか。そうですね、あんまり。声がすると。みんな」 
「あなたは聞いたことが?」 
「……気のせいかも知れませんが」 
「もういいかい」 
師匠の言葉に鎌田さんは肩をビクリとさせる。 
やはり。 
「噂では、返事をするとどうだとか、しないとどうだとか言っていましたが、実際に」 
そこまで言った時、また聞こえた。 
『もういいかい』という声が、どこからともなく、そしてどこへともなく。 
だが、今度はその声と同時になにか別の気配が高まるのを感じた。それはほんのわずかな違和感だったが、僕の首筋をひやりと撫でて、師匠を一瞬で反応させた。 
玄関から飛び出して走り出す。 
集会所の壁伝いに左側へ回り込む。自転車が何台か置き捨てられている場所を膨らみながらかわし、玄関正面から見て敷地の右奥へと向かう。 
敷地の端の煉瓦塀のあたりは砂利だったが、集会所の側の地面はコンクリで舗装されている。その壁際にプロパンガスのボンベが二基立てられている。小さな窓に見覚えがあった。頭の中で集会所の間取りを思い浮かべる。ちょうど台所の裏手だ。



129 : もういいかい  ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2010/08/29(日) 21:41:59 ID:zEqctehg0 [7/16回(PC)]
師匠はその壁際の地面に両手をついて這いつくばる。這っている蟻を見つけようとするような格好だった。 
しかしその目の焦点は遥か地面の下に向かっている。 
「なにか、埋まっているな、ここに」 
コンクリ舗装の地面を食い入るように見つめたまま、師匠は呟いた。僕は少し手前で立ち止まり固唾を飲んでその様子を眺める。 
ようやく鎌田さんが追いついてきて、怯えたように「どうしましたか」と問いかけた。 
師匠はその声が聞こえなかったかのようにひたすら地面を舐めるように見ていたが、やがて身体を起こし、「なにか、埋まっていますね、ここに」と言った。 
僕はこちらの方角からなにか気配のようなものを感じ取っただけだったが、師匠は確実に場所まで特定したらしい。 
「なにかと言いますと?」 
「それが知りたいんですよ。この下はなんです? もしかして地下室かなにかがあるんじゃないですか」 
鎌田さんは首を捻っていたが、そんなものはありませんと断言した。確かにそれもそうだろう。平屋のなんの変哲もない集会所に地下室など似つかわしくないし、中を探索した結果それらしき地下への出入り口はなかった。 
小さな貯蔵庫の類もないということを付け加えられ、師匠は考え込む。 
「じゃあ、浄化槽は?」 
一瞬ハッとしたが、さっきトイレに行った時、普通に水洗式だったことを思い出す。いや、しかし水洗式でも下水ではなく浄化槽で汚物を溜めるということもあるのだろうか。 
「浄化槽は……」 
鎌田さんが答えようとした時に、表のほうから懐中電灯の光がゆらゆらと近づいてくるのが見えた。 
「なんの騒ぎです」 
近所の人だろうか。五十年配の痩せた男性が緊張したような面持ちでやってきた。後ろにはその奥さんらしい女性。 
「ええと……」 
鎌田さんがどう説明したものか迷っていると、かまわず師匠はその痩せた男に向かって「この下に浄化槽はありますか?」と訊いた。 
男は怪訝な顔をしながらも、「ないよ」と即答した。「今は下水が通ったから」と続ける。



131 : もういいかい  ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2010/08/29(日) 21:44:01 ID:zEqctehg0 [8/16回(PC)]
「だったら、下水が通る前は?」 
「通る前?」 
少し思い出すような表情を浮かべた後、男は表の方を指差した。 
「浄化槽はあったけど、玄関の横だな」 
そう言えばトイレは玄関から入ってすぐ左手にあった。浄化槽はその表側に埋まっていたのだろう。 
師匠は考え込む。 
ぶつぶつとなにか呟いている。 
いつの間にか男の奥さんらしい女性が消えている。鎌田さんに向かってなにかジェスチャーをしていたので予感はあったが、しばらくすると数人の足音が聞こえてきた。 
「この人が霊能者?」 
そんな無遠慮な声が掛かった。小太りのおばさんが興味津々という感じに近寄ってくる。どうやら婦人会長の鎌田さんが独断でこっそり調査事務所に依頼したというわけでもないようだ。 
師匠は露骨に嫌な顔をして、それでも増えた地元の人々に向かって再び問いかけた。 
「この集会所の建て替えはいつの話ですか?」 
鎌田さんにも訊いた質問だ。 
何人かが顔を見合わせ、今年大学卒業のナントカ君が生まれた頃だという情報から、「二十二年前」という結論が出た。 
「その建て替えの前から、気持ちの悪い声に関する噂はありましたか」 
ざわざわする。 
気味悪そうに、その中の一人が「あったと思う」と言った。 
建て替えの前からあった? 
では今の集会所の構造にこだわってはいけないということか。 
「では建て替え前に、浄化槽はどこにありましたか」という師匠の問い掛けにはすぐに返答があった。 
「トイレの位置は変わってないから、同じ玄関の横」 
「だったら、そのさらに前でもいいですから、とにかくこの地下になにか埋まるような心当たりはありませんか」 
ざわざわと相談に入る。 
いつの間にかまた人が増えてきている。子どもの姿が表の方に見えたが、すぐに母親らしい女性に引っ張って行かれた。 
なんだか大ごとになってきたな。